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  よくある質問集告知直後によくある質問

Q7:発症してはじめてHIV感染を知りました。これからどうなってしまうのでしょう。とても不安なのですが・・・。
 
 
2007年6月9日掲載

おだまき
2004年4月
カリニ肺炎発症
50歳
(男性・既婚者)

『ありがたいことに、今や「死に至る病」ではなくなりました。CD4一桁からでも生還でき、服薬という少々面倒な日常が始まりますが、それ以外はほとんど今までと同じように生活していけます!』と、アドバイス的になら言える私ですが、正直なところは、とっても、とっても大変でした。

私の場合はCD4が42、カリニ肺炎発症。2ヶ月の入院。バクタ(肺炎治療の薬)での苦しい副作用、入院費用の不安、入院中の生活費(家族を養っている身なので)、退院後の社会復帰への不安、夜眠れない時に襲われる孤独感・差別感(他人からどう見られているのか等)、自分を責めたり、自殺を考えたり、とにかく精神的にも、体力的にもガタガタになりました。

服薬は退院と同時にスタート。そしてその後4ヶ月ほど自宅で療養。
生活(特に経済的なこと)はどうなってしまうのだろう?
友人や家族には今後どう接していけばよいのだろう?
会社は自分をどのような病人と認識をしているのだろう?
療養中時間だけはたっぷりあったので、色々考えることができましたが、あまりポジティブな発想は生まれなかったですね。持って生まれた性格が暗いのかもしれませんが…。それでも、とりあえず私が実行したのは、
●体力回復に全力を注いだこと。顔色を良くする努力。
●それから過去の清算なのか、未来への希望なのかわかりませんが、知人・親戚の誰もいない地域への引越しで再スタートをきりました。

社会復帰して半年も過ぎた頃、顔色にも赤味がさしてきましたし、体重も少々増えました。残業もボツボツと以前の様にできるようになりました。
CD4が200を超えたのは一年以上たってからです。その間も、「うつ病」「不眠症」と身体や精神にいろいろな症状がでました。その都度、睡眠薬、抗不安剤、抗鬱剤など処方してもらいました。

今、丸三年がたってようやく「不安は大体なくなりました」と言えるようになりました(眠剤は今でも飲んでますが)。感染者陽性者でなくても人生に不安はつきものです。健康的な生活に健康的な心が宿るともうします。先々の不安を案ずるより、まずは万全な体力を備え、日々大切に生きる。そうありたい、そう努力しようと自分に言い聞かせ、なんとかガンバッテ生活している現在です。


2004年12月27日掲載

K.M

私は、2003年4月にカリニ肺炎カンジダ症を発症して、検査の結果エイズと診断されました。私の場合、告知されたときは死ぬか生きるかの瀬戸際でしたので、不安とかショックなどはありませんでした。

しかし、入院生活を終え投薬がはじまるとだんだんエイズという病気の意味が伝わってきて、何とも言えない悲しみが押し寄せてきました。また、薬を飲むたびごとにエイズという言葉が頭をよぎり、拒食症にまでなり、このまま生きていても本当にいいのだろうか?自分はこの世にいても何の役にもたたない邪魔者なんだと思い、何度もこの世を去ろうとしました。

しかし、命を落とすということはそう簡単にはできるものではありません。ある時期、自然とそう思うようになり、病気に立ち向かうようになったのです。

今までの闘病生活の中で思ったことは、発症した患者はCD4が低くウイルス量も多いのでいろんな病気にかかりやすいので、自分のできる範囲で予防に心がけ、また、発症した病気の再発を防ぎ、決められた投薬を守ることでウイルス量も抑えることができ、免疫力も回復することができると思います。

ただ一番大事なことは、真剣にバックアップしていただける医師・看護師に出会えることです。そうすれば、現在の医学では、エイズ再発の危険性はかなり低く、命の危険性の不安はかなり抑えられると思います。

心のケア、生活のことは電話相談室などを利用したり、また自分の好きなことを徹底的にやってみてはいかがでしょうか?気持ち的には、感染者も発症者も同じなので、みんな負けずにがんばっています。

あと、体調の加減で仕事ができなくて生活力がない場合などは、生活保護制度や障害年金制度などがあり、また障害者認定をすることにより医療費の負担も軽減されます。その人、個人によっても違いがあるので、居住中の役所や福祉事務所に詳しく尋ねてみてはいかかでしょうか。その時にも、病院や主治医に手助けしていただくのも良いかもしれません。

まずは、いい病院と主治医にめぐりあってください。

2004年12月27日掲載

ねこ大好き
フリスキーの
ペスクタリアン

関東在住
20代後半

まず、発症してから感染を知ったのなら、今罹っている感染症等で治せるものは治した方がいいのではないですか?無理強いはしないけど、何もしないで自然に治癒するのかどうか定かではないですし、(病院は選ぶにしろ)薬などで治るものは治ると思いますよ。少なくとも放っておくよりは楽ではないでしょうか。

僕はカリニ肺炎が重症になってから入院したため、肺炎から治療しました。そして呼吸が出来て、身体が動かせるうちに病院に行ったほうがよかったなと思いました。それは発症しても健康なうちの方が選択肢も広いし、何より苦痛が少ないからです。

次に、親などへ周知するかは、僕の状態が思わしくなかったこともあってか、自分が悩まなくてもある程度他人任せで済みました。パートナーだけは、感染を知ってから早期に自ら告げました。但し、相手の気持ちをフォローするだけの余裕がなかったので、症状が改善してからカミングアウトしてもよかったとも反省しています。唯そのことは相手も大人なので勘弁してもらうことにしようと思っています。確かに自然に周知されるほうが手間は省けますが、たぶん発症後もいろんな人付き合いがあると思うので、誰にどの程度カミングアウトするかは、時間のあるときにでも考えてみてください。

また、僕は丁度無職だったので考える必要もなかったのですが、会社などに勤めてる人は慌てて辞めない方がいろいろ好都合だと思います。お金のこと等々、発症しても使い道はあります。誰かに早期退職を勧められても、寝たふりでもしてその場はやり過ごし、信頼できる人・組織に相談してみたらいかがでしょうか?

そして、手帳は早めに申請した方が、入院費・治療費等は抑制できると思います。しかし様々な事情があると思うので、一概には言えないです。それと僕は入院中には役所までいけなかったため申請等は他人任せにしてしまいました。個人的なことですが、折角の機会なので申請の仕方等をもう少し勉強させてもらえばよかったです。

いつの間にか発症から数年経ってしまいました。感染や発症について今更不安になっても仕方がないので、あまり不安だという問いに答えられないのですが、何かの役に立てば幸いです。


2004年12月27日掲載

SHOU
平成11年6月
地方で告知

資格取得を
目指している
41歳
男性

一般的に 発症してHIV感染を知る方は 入院中、又はすぐに入院する方がほとんどだと思います。そういう自分も入院中にHIV感染を知りました。病院の対応や生活・環境の違いがあるので いろいろあると思います。

自分はまず、生きようと思う気持ちを持つ事が大事だと思います。そして、医師にその気持ちを話して、あなたが納得するまで、理解するまで、少しでも多くの時間を作ってもらい、退院するまで又はある程度動けるようになるまで医師を信じてみるのもいいと思います。

医師と話す事は何よりこの病気に対する正しい知識を得る為にも必要な事だと思います。その時は何が正しいのかは区別出来ないとは思いますが、言葉だけでなく文書にして渡してもらう事も大事です。

私は○○したい、という気持ちを出せば、医療関係者はちゃんと考えてくれます。たとえば専門のカウンセラーを受けたいと言えば、病院で対応出来なくても県から派遣してもらう事も出来ます。納得するまで求めてください。道が開けると思います。


2004年12月27日掲載

栗の介

60代

男性

既婚者

東京
隣接県
在住

私は2001年暮に風邪症状で微熱が続き、翌年正月明けに国立病院に行きレントゲン、採血検査の結果エイズに依るカリニ肺炎と診断され即入院。妻に自分で言えず医師に電話する様頼んだ位パニックになりました。頭の中は真っ白状態、平静に戻る迄半月程掛かりました。

そして入院治療、入院期間がどの位なのか不安になりました。1月分は会社に知られるのを恐れて保険を使用せず37万ほどを支払い。それも抗HIV薬を服用しない額で、その薬は1ヶ月20数万円と聞きビックリ。2月は保険を使用し、それでも17万円の支払いでした。

入院後、身体障害者手帳の申請をして3月末に取得。私の場合は、保険組合に医療費の助成を申請して通ったので、結果、病院代1ヶ月の上限が1万円プラス食事代2万4千円、計3万4千円で済みました。そして、食事代を除く医療費も身障者助成で全額戻ると聞き一安心。現在も1ヶ月6万円ほどの支払いですが、私の場合全額戻り、医療費0は助かります。

感染経路ですが私は18歳から2年間ほどアナルセックスを体験し、その後結婚。2人の子供が出来、妻は家庭と育児に専念し私は仕事に熱中。2人目が産まれてから妻との性交渉は無く、家族を巻き込まずに済みました。

35才の夏に酒席で遅くなり泊まった所がゲイ旅館で15年ぶりのアナルセックスでゲイの虫が目覚め、以来度々ハッテン場旅館、サウナに泊まり、SEXを楽しみました。セーファーセックスには気を付けていましたが、50才過ぎに幾度かサウナで相手をした3人と生で数回(5回程)のSEXで、その中の1人のウイルスが私の体内に入り感染し、発症したのです。25年間千数百回の行為で僅か数回のミスでした。現在は数値も安定しこの病気と共に毎日楽しく元気に、生活しています。


2004年12月27日

デカノンタン
30代 男性
ゲイ HIV+
東京在住

自分は感染発覚から1ヶ月半経ちました。

発症していないのでまあ当然なんですが、何が変わるかといえば、表面上は拍子抜けするぐらいほとんどなにも変わらないと思います。むしろ感染したからって日常はそう簡単には変わってくれません。仕事して稼がなければならないし、お腹はちゃんと減るし、洗濯物はたまるし、セックスはしたいし。それは発症してしまってから分かっても一緒だと思います。最初は大変かもしれないけど、症状がかなりひどくても結構治っちゃうようだし、治まればまたいつもの日常に戻っていかなければならないんですから。

自分は投薬がまだなので本当の苦労はこれからなんだろうけど、病院の人は、自分のためにこんなにしてもらっちゃっていいのかなってぐらい支えてくれるし、障害者手帳もらったらこんなにいいことがあるのかと、今はむしろ楽しみになっていたりします。

簡単に死ねちゃったら楽なのかもしれないけど、人間そう簡単には死なないし、どんなつらいことでもそのうち慣れていくものだし、生きてればやっぱり楽しいこといっぱいあるからね。感染したことはもうどうにもならないんだから、それをきっかけにして自分をいいほうに変えていければいいなと思ってます。こんなことでもないとなかなか変われないですからね。

2004年12月27日掲載

夜明けの
マイウェイ

首都圏在住
30代

かなりの重症でした。早5年が経ちました。当時、急に体調が崩れ入院して対処療法していたのですが、一向に改善の兆し無く、この検査に踏み切って判明しました。体重は、20キロほど落ち、食欲は余り無く(というより何を食べてもおいしくなく、時に甘いものも苦く感じたり・・・)、その頃は連日40度近い高熱が出ていました。色々なところの機能がダウンしていく中で、仕事は「休職」→結局自主退職に追い込まれました。

1年入院して得られたものは、世間の厳しさと・親と相方が心の支えになってくれたこと、ホント地方の医療機関でしたが人々の偏見の無い暖かな対応でした。

入院中に検査を実施することになり、その1週間の間は苦痛以上の何者でもなかった。結果が出た時は既に「まな板の上の鯉」検査するときにはもう+かーかは決まっている。それが紙になって出てくるだけ、だからーだったら「セーフ!!」と喜べるけど+だったら四の五の言ってないでやることやらないとと、そう思ってました。

告知のとき、医師がなんとも口ごもってホントに申しわけなさそうな表情でいた。「何?」ときいても「う、ウ〜ン・・・。」仕方ないから「駄目だった?」と聞くと小さくうなずくばかり。(変な話、立場が逆のように思えるけれど、地方の非拠点の医師だから仕方なかったと思うし、ましてその2日前には悪性腫瘍の宣告をされているから。)

相方と親だけには話した。ひょっとすると思わしくない結果になることも十二分に考えられたから。相方も忙しい中、新幹線と在来線を乗り継いで片道5時間はゆうにかかるところをホントチョクチョク見舞いに来てくれた。

地方の拠点病院に転院して間もなく、なにげなくつけてたTVで恒例「24時間テレビ愛は地球をすくう」をやっていた。いつもは「ふ〜ん、またやってる」程度なのだけれど、なぜかその後に情緒不安定になってしまった。何もする事が無くなる夕方前、暇つぶしに売店にいくのにエレベーターを待っていると何の意味も無く急に涙があふれて止まらないのである。それも夕方前の時間になると決まって。それ以外はケロッとしている。そんな日が2週間余り続いた。あの時それまでは意識していなかったもの:人生のゴールが静かに足音を忍ばせて急に目の前に迫ってきたことを感じていた。

24時間点滴が数ヶ月も続き、その間も抗がん剤・HIV治療薬・放射線照射・クリーンルームでの面会謝絶の日々、体はだるい・いうこときかない、体力は落ちる、髪の毛は抜ける、手はつってしまうので長い時間ペンがもてない・・・色々ありました。こんなあたしも、今体重がいいのか悪いのか元に戻り・・・。

仕事を失うと、ご時世もありますが再就職は決して平坦ではありませんでした。長期入院となると、筋力が衰え外出の際に必要以上に時間が必要となります。あと手が疲れやすく、文字を書いてもキーボードを打ってもスグにしびれたりつったり。

内科混合病棟にいると色んな人々に出会い、悲喜こもごもいろんな場面を垣間見たりして人生観も少し変わったと思います。いつかは皆たどる道、不老不死の人はいない。限られた時間だから大事にしなくちゃ!と思いました。だからいつまでもクヨクヨしてないで顔を上げて歩かなくちゃと。医者にもそういわれた。

併発した病の生存率は3年後には50%を切る。データ上は同じでもクヨクヨとしがちな人はナゼだか治療の効果があまり上がらない傾向がある。病は気からという言葉があるけれど、どれだけ医学が進歩しても最後は本人の気持ちが大きく作用していると思うことが色んな患者を診てきて思うと。

だから、無理にとは云いませんが、ケセラセラ(何とかなるさ)ぐらいに精神面は過ごして欲しいと。

今は以前に比べると予防等の啓蒙活動や僅かながら医療面での進歩などもあり「(かなり)重症」になってから判るということは少ないと聞きます。が、油断をしているとヤハリとんでもない事態になってしまいます。

東京などでは大勢の人の中で周囲を気にする事が少ないのですが、それ以外の地域ではこの「周囲の目」が気になってなかなか「検査」にいきにくいという現状があると思います。これは検査を受けることよりも、「万が一そうだったら・・・。」という底知れない不安からかと思います。ですから「発症」する前に予防と検査に心がけて欲しいのです。

いま、都市部の病院に通院していますが、入院していた病院とは時々やり取りしています。普段は見過ごしがちな場面で「やさしさ」を感じ、そのやさしさを次の誰かにと思いながら過ごしています。

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