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  よくある質問集告知直後によくある質問

Q1:最近告知されたばかりで混乱しています。みなさんはどうやって切り抜けたんですか?
 
 
2008年7月1日掲載

北風小僧の寒太郎
30代
ゲイ
感染者
都内

告知後2年たった今でも、告知のあの日のことは鮮明に覚えています。新宿南検査室での長いカウンセリングと混乱、誰にも相談できず絶望の淵にあった嵐の夜、藁をもつかむ気持ちでHIV関連のサイトを読み漁っていた自分、このまま夢であってほしいとベッドに深く沈んでいったあの日…。

このように悲劇のヒロインのような自分がいたと同時に、これからの生活をどうしようと考える冷静な自分もいたのが事実です。だから、検査室から帰ってきた夜には、不安におしつぶされそうになりながら、ちゃっかり次のこともしてました。

感染者(ポジ)の方のブログを片っ端から読む(その中の一人の方に速攻で相談メールをし、翌日には「これからすぐにやったほうがいいこと」などの助言メールをもらえたことは、自分にとってとてもあり難かったです)
・HIV支援団体のサイトを見て情報収集(その中に『ぷれいす東京』があり、「Peer Group Meeting(PGM)」という告知まもない人を対象とした小人数の話し合いの場があるのを知り、速攻でメールで申込みました。これがポジの人脈を広げ、自分は生きていけると実感できた大きなきっかけだったように思います)。
・自分が加入している民間の医療保険の再確認(今後、どれだけ医療費がかかるか未知数のため、生活の基盤でも安心感を実感するため)
・日記をつけ始める(自分の気持ちの整理のため。ただし、落ち着いてきたら自然消滅してしまいましたが…)

そうこうしているうちに、食欲と生きる力がまったく湧かない怒涛の3日間が過ぎたのもつかの間、「何だ、すぐには死なないじゃん」ってことが分かり、いつもモードにいつの間に戻ってました(汗)。そして、次に挙げる第二ステージ「HIVを通して人とつながる」に移行していき、自分を少しずつ取り戻していったように思います。
・PGMに参加(ポジってみんな普通の人で、同じ悩み抱えてるんだって実感。その場所が毎日「ネスト」というポジのたまり場としてオープンしているのを知り、淋しくなると今でもそこに顔出してます)
・検査室で紹介してもらった拠点病院で初診(自分のCD4ウイルス量がわかり、ちと安心と長期戦への心構え。主治医と担当ナースも優しそうで安心)
・NGO「ハーティ・ネットワーク」へ参加(ポジ主催のポジ同士がつながるしゃべり場)
・ポジ専用SNSへ登録(みんなのブログ読んでると悩みに共感したり、貴重な情報が分かったり…リアルもできるしね)

これらは自分の場合なのであしからず。ただ言えるのは、同じ悩みをもった物同士でつながれたのが随分心の支えになったこと。もちろん、病気の性質上、プライバシーには配慮しつつですが。


2007年11月10日掲載

しんた
40代
ゲイ
東京在住

僕の場合、結核性髄膜炎で意識不明に陥りその後ある程度回復した状態で告知されました。それは母の突然死の約2ヶ月後でした。人間の致死率は100%であり、生命は永遠なんでことはありえない人間の命のはかなさを母の死をもって生まれて初めて考えていた矢先のことでした。

こんな状況であった為、告知された日は混乱するよりもまず「自分は後どのくらい生きることが出来るのだろうか」と意外と冷静に考えていた自分がいたような気がします。幸いにもパートナーのいる僕は、直後にPOSITIVEであることを告白し日々の不安や直面していると勝手に思い込んでいる死に対する恐怖感等、弱音を吐いたりしたこともありました。振り返ってみると、このような精神的に不安定な時期に自分をさらけ出してなんでも言える相手がいたことで非常に助けられた気がします。パートナーに本当に感謝です。「人間は一人では生きてゆくことが出来ない」とはよく言ったもので、死を意識すればするほど自分をさらけ出して話せる相手が必要なのだと本当に実感しました。もしかしたらこれは単なる我が儘かもしれませんけど。

結核の投薬との兼ね合いもあり告知から半年間は免疫力の低下が原因となり様々な病気になりましたが、現実を理解してくれている人が隣にいたためなんとかあきらめずに頑張れたのだと思います。

HAART治療を始めて半年以上経った現在、CD4の値も安定し日常生活は殆ど発病以前と変わらない状態まで回復しました。これから先後何年生きられるのかはわかりませんが、今はただ日々命の尊さを大切に生きて行こうと思っています。

2007年11月10日掲載

川田アキラ
40代
ゲイ
感染7年目

自分の場合、当時のパートナーの発症・告知ののちに自分も検査を受けて感染告知を受けました。パートナー以外ともリスキーなセックス(危険行為)を行っていたので、検査場で告知されたときには「あぁ、やっぱり俺もか・・・」という気持ちでしたが、自宅に戻ってパートナーに電話で検査結果を伝えて一人になったときには「なんで俺たちが・・・」という気持ちで胸がいっぱいになりました。入院中のパートナーはいつまで生きていられるんだろう、せめて最期は俺の腕の中で逝ってくれ、でもそれまで俺が生きていられるんだろうか、今の仕事は、親に何て言おうか・・・など、色んな思いが頭の中を駆け巡っていたのを覚えています。その夜は朝までPCの前で「エイズ」「HIV」という言葉でひたすらネットを検索していました。その中で見つけたのがある個人のHPでした。その中の、
「われわれは一人じゃないんだ」
「いっしょにがんばろうよ」
との言葉に救われた気がしました。その後、そのHPのオフ会に参加して、初めて自分たち以外の陽性者に会ったとき、かつて自分のゲイというセクシャリティに目覚めてからゲイ雑誌を読んだりゲイコミュニティに足を運んだときと同じ感動、つまり「自分の他にも『仲間』がいたんだ」「自分は一人ぼっちじゃないんだ」という気持ちを感じ、この病気と向き合える決意ができたんだと思っています。

2006年9月2日掲載

ペンネーム
未だCD4 250

夏休み中だったので、時間がとても自由だった事が良かったのだが。告知された日は「なんでこんなことになっちゃったのか」とにかくそのこと以上に思考が進まないまま一晩過ごす。

告知翌日の午前中に拠点病院に行って診察を受ける。医師の診察を受ける前に看護師と話しをする。ここでまず大泣き一回目。まとまりなく話す私の話しをすごく良く聞いてくれて、張りつめていた心が解けていく感じだった。医師の診察は特に印象なし。その日の午後ぷれいすにいく。夏休み中だったため、相談員独り占め(笑)この日2度目の大泣き。「とにかく死なない、いろんな人が周りにいていろんなサポート体制がある。」頭では分かるのだが、まだまだ興奮状態は収まらず、その後10日ほどネストに通い続け、いろんな人に接する。合う人合わない人いたけれど「ひとりじゃないんだ」ってことを実感。その中で自分と同業の人と話す機会がありとても勇気づけられた。正しい情報を得て、一人じゃないんだってことを実感する事で急性期を脱した。
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2006年9月2日掲載

kyon
40代
女性

私の場合はエイズを発症して危篤状態で告知を受け、しかもそこが拠点病院ではなかったので、告知はされたけど「この病院では治療できない」とだけ言われて、拠点病院に移されるまでの間病気の説明もされないという地獄のような状態が続きました。私はHIVやエイズについて無知だったこともあり、そして、当時は体の痛みも耐えがたいものだったので、きっと苦しみもだえながら、家族や友人に捨てられて生きる場所もなくなって悲惨な死に方をするのかなと考えました。ほとんど気が狂いそうなあの状態から生還し、無事家に帰り、仕事ももらえて多くの人に囲まれて人並みに暮らせています。

今は、あの時の恐怖と孤独を越えられたのだから、たいていの困難は越えられるんじゃないかと思うのです。人は孤独にされるのが一番つらいと思うけど、「ぷれいす東京」のように私たちを支えてくれるNPOもありますし、こうやってネストにつながってくる陽性者の人たちがいて、人とつながって生きていけるから、たまに落ち込むことはあっても自分につながる人たちと関わって行けば、人生は前を向いて歩いて行けると思いますよ。

2006年9月2日掲載

博多っこもどき
40代
ゲイ
福岡在住

こと精神面のフォローという事に関してや日常生活における細々とした不安や疑問などへの対応については、これは地方だからというのではなく、病院という公的機関の限界なのだと思いますが、特に陽性告知を受けてから、精神的な動揺、絶望から立ち直れるまでの長い期間、病院は、例えば月1回とかの断続的なフォローしか出来ません。

けれど、この人生に絶望している期間、自分自身で立ち上がれるまでの期間にこそ、継続的かつきめ細やかな精神的支えが必要なのであって、残念ながらそれを病院に求める事は難しいと思います。

どうしても不安で眠れない夜、何かにしがみついて泣き出したい精神不安、週末の深夜に突如発症した帯状疱疹や発熱などの突発的な症状。風邪薬の飲み合わせは?急に歯が痛みだしたけど、近所の歯医者に行ってもいいの?これら日常、頻繁に起こる細々とした疑問や不安について、病院へ救いを求めようにも、診察時間の枠の外では、対応はしてもらえませんでした。

幸い、私の場合は地元にたまたまHIVのボランティア団体が存在してくれたおかげで、昼といわず夜といわず、平日から週末、祝日まで、どんな時でも陰日なた無く相談に乗り、支えてくれました。そのお陰で、私は絶望の淵から立ち直れるようになるまでの期間を、無事、生きおおせたのだと思っています。

2006年5月9日掲載

たみ
30代
女性
東京在住

告知前に別の要因からしばらくうつ状態で何もできなかった時期があったのですが、感染告知を受け、さらにひどく落ち込みました。当時は知識不足で感染を死に結び付けてしまい、もう長く生きられない、セックスもできない、誰からも愛されない、と悲観し、不安な日々をやりすごしました。取り返しの付かない事態をうらみ、悔やみました。

しかし同時に、『時間がない』と思いました。(実際はそんなことはなかったのですが。)いろいろ考えた末、人生の価値は長さではなく、その濃さで決まるという考えに至り、明日の心配より今を生きること、今できることをやることが大事なのだと気づきました。 そして何より大きかったのが当時交際していた人が受け入れてくれたこと、でした。だから私はむしろこの病気が立ち上がらせてくれたと思っています。

今でも不安に陥ることはよくあるのですが、ネストに来て他の陽性者の方とお会いすると、皆さん元気なので、そんなに恐れることはないことがわかって安心できますし、勇気をもらえます。まず、必要な情報を集めて、NPO団体等に連絡をとり、他の陽性者と会ってみることからはじめてはいかがでしょうか。

2003年1月14日掲載
Fくん
24才
告知された直後、まずは電話で一番信頼できるゲイの友人に電話をして、 新宿まできてもらいました。言うだけの事をいって、なんとかその日一晩を寝られるように取り繕いました。翌日、学校をさぼって速攻で病院に行き、 ドクターとコーディネータさんの話でもう一回おちついて、なんとか寝ました。 その次の日、HIVについて大変理解のある友人(大阪在住)に電話をして、 なんとか落ち着いて一晩寝ました。

それからは自分の気持ちを叫びだしたり、文章に書き出したり、二丁目で ひたすら飲んだりして、時間がたつのを待ちました。なにか人生において強い 衝撃を受けて、そこから立ち直るには、なにより「時間」が必要であると自分は 確信しているので、そのようにして一日一日をやり過ごしていきました。

そのうちに客観的な事実が頭にしみていくに従って、なんとかなっていったものでした。 (ただし、これは、私・二人の友人がHIVについて否定的ではない関心と知識をもっていたがゆえに、なしえたということが強いと思われます。 そのような環境や事前の知識をもっていないのであれば、ぷれいすのようなところの力を借りることがもっとも重要であるのはいうまでもありません。)

2002年6月1日掲載

つのっち
20代 男性
東京在住

特にこれといって切り抜けるために何かしたということはないけど、主治医に何でも 質問して心配事をひとつずつとっていったよ。

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2002年4月9日掲載

短期集中型仕事
これから
どうしようかな
30代
男性
東京都在住

僕が告知されたのは、アメーバー性の肝膿瘍(割と良くあるみたい)で入院したときに、病院の先生から「普通はこんなに酷くならないんだけど」と言われ、ゲイであることなどを聞かれ、「いちおHIVの抗体検査を受けてもらってもいいですか」とのことで検査を受ける事になり、感染してることがわかったのですけど、最初は肝膿瘍の痛みと熱で、感染した事の告知について、「あたっちゃった、仕方ないや。」と思いましたが、後は何も考えられない状態でした。

だいたい二ヶ月半程入院しましたが、肝膿瘍の病状が良くなるにつれて、やはりHIV感染の事実は重く自分自身にのしかかってきました。夜寝る頃になると色んな不安が頭をよぎりました。いつまで生きれるのか、これからどうなるのか、かなり不安な日々を過ごしました。ただ、結果が分かって親しい友達には連絡をとり、HIVに関する色んな情報を持ってきてもらったり、看護婦さんにいろいろ話しを聞いてもらったり、金銭面ではソーシャルワーカーのかたに相談に乗ってもらったり、一つ一つ自分の不安な所を解消していきました。焦っても仕様がないと思いましたが、でも、僕には時間が無く、障害者手帳も薬も全て入院中にどうにかしなければならない程、検査の結果は良くなく、又、そこで不安な事が持ち上がり、又、いろんな人にお世話になりました。

僕の場合は、友達や看護婦さん、ソーシャルワーカーさんなど、周りの人々によって悩み事を解決したり、これからどうすればいいか道しるべをもらったりして、今は告知を受けて四ヶ月立ちましたが、かなり不安な部分も無くなりました。幸いだったのはAIDSが発症して無かった事でした。

何事も自分のことなので、自分でアクションを起こして、声にだして色んな人に聞いてみるのも一つの手だと思います。同じ境遇の人の話を聞くのも良いと思います。いろんな人がいると思いますが、一個一個やって行けばどうにかなると、ま、この僕の体験談で少しは、前向きに考えてもらえたら幸いかなと思います。


2002年2月12日掲載

こうりょう
28才

信用出来る友達に電話して、励ましてもらったりこの病気の知識をもらって乗り越えた。

2002年1月21日掲載

シンデレラボーイ
20代
ゲイ
東京都在住
実家暮らし

私は告知後、1年間近くほとんど誰にも相談せず、一人で切り抜けてきました。(もっとも、私の場合は幸いにしてエイズの発症はまだでしたが)

告知を受けたとき、私にはすでにHIVに関する知識・情報がある程度ありました。そのおかげか、陽性と告知されたときも意外と冷静でいられました。だから「正しい情報を得ること」が何よりのクスリだと思っています。正しい情報を知ると「具体的 には何が不安なのか?」とか「これから何をしなければならないか」といったことが、自然と見えてくるからです。

また、気持ちを整理する方法として、日記をつけていました。出来事だけでなく、必ずそれについて“感じたこと”を書くようにします。HIVに関することはもちろんですが、これに限定せず仕事・恋愛・友達・家族・趣味・・・等など、何でも書きました。

そして、キモチがモヤモヤしたときは時々日記を読み返してみるのです。すると、ひとつひとつの悩みの原因がちょっとずつ見えてきます。そして、意外なことですが、そうした悩みのいくつかは昔から潜在的にあった仕事の悩みだったりとか、恋人の 自分への気持ちがどれくらいあるのか不安なだけだったりと、実はHIVそのものが原因じゃなかった!なんてことも結構あるのです。そのときは「HIVだからって言い訳にはできないな」と反省したりもします。

もちろん、時には人に頼ったり甘えたりすることも大事ですが自分で切り抜けられれば、それはそれで自信がつくものですよ!

2001年12月17日掲載

Kくん
21歳
学生

僕は病気の事についてはある程度の事までは理解していたけど、いざ自分が感染していたとわかった時、3日間泣きつづけた。でも、電話で友達に感染の事実を伝えた上で話をしたら、気持ちを落ち着ける事ができた。

こういうことは一人で悩むより誰かに相談した方がイイのかなって思います。僕は相談できる友達がいたけど、それが出来ないのならボランティア団体などに相談するのも一つの手だと思います。

2001年3月5日掲載

ポテトクィーン
29歳 男
gay
東京在住

人生経験も同じだと思うけど、自分がいつまでも落ちこんでいればどん底に落ちた気分が消えないでしょ?私も最初はショックで全く信じられなかったけど、時が経つに連れて前向きに考えるようになりました。未だ日本の社会には偏見を持っている人もいるかもしれないけど、そんなの考えてたら何にもはじまらないでしょ? 今の所、ちゃんと薬を飲んでさえいれば少しずつでも結果はよくなっていくんだし、他の人とそんなに変わりはないでしょ?

そんなに考えすぎない方がいいかもよ。初めは心配だと思うけど・・・。

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2001年3月5日掲載

てっちゃん
20代
外国人

普通の病気だと思って、病院で検査をすすめられて受けた。結果は、HIVに感染していることがわかった。一瞬は、冷静だったですが、家にかえったら、もう頭が真っ白になって、自分が自分じゃないような感じがした。

自分の場合外国人なので、相談できる人もいないので、自分がそういうインターネットで調べたり、以前にもらっていたパンフレットにのっていた相談先に電話をかけたりしました。それでも、気持ちは落ちつか無かった。最初は、あたまが混乱していたのは、HIV=死というイメージが強く、人生をあきらめてしまった気持ちだった。

ぷれいす東京にくるようになって、すこしずつ、生きる自信がついてきた。感染してから10年以上たった人が元気にしていたり、普通の生活をしているのを見て、自分ちょっとだけ安心できた。HIV=死ではない。そこで感染した人と話したり、薬の飲み方とか、いろいろと教えてくれて、やっと自分らしくやっていけるようになった。

でも一人になると不安になる時もたくさんある。いくら人にアドバイスしてもらっても、自分で解決するしかないこともある。3ヶ月くらい、すごく悩んでいて、外にでられないくらいの状態だった。部屋のものもすべて捨ててしまって、帰国を考えていた。

その時の僕のCD4は30で、ウイルス量は60万くらいだった。すぐに薬をのまなければならないことになった。薬を飲み始めて、副作用もあったが、2ヶ月くらいでなれた。普通に学校にかようことができるようになった。

すごく難しいけども、自分の気持ちをなるべく楽観的(Optimistic)に考えるようにした。病気というのは、どういう病気でも、皆いつまでも元気でいる訳にはいかない。だからこそ、精神的に整理をして、前に一歩を踏み出すことが大切。

2001年3月5日掲載

元教師
30代
ゲイ

私の場合は、どうすれば感染するかも知っていたし、すぐに死に至らないことも知っていたので、感染告知をされたときは「ああ、とうとう感染したか」と思いました。それでも全く平気だったことはなく、「もう性交渉はもてないのかなあ」とか「何歳まで生きられるんだろう」といったことを考えていた日々が続きました。

しかし周りに理解ある友人がいてくれたこと、元来悩んでも解決しないことは思考を停止させてしまう性格だったこと、それに何より人前に毎日立たなければいけない仕事だったこともあり、そんな日々も(確か)せいぜい2ヶ月ぐらいだったと思います(その2ヶ月の間ですらずっと悩んで生活してきたわけではありません。2,3週間を過ぎたあたりからはたまに考えるぐらいでした)。なので、「どうやって切り抜けたんですか?」と聞かれたら、生まれつきの性格と時間が解決してくれたとしか答えられないのですが。

2001年3月5日掲載

サマンサ
30代
女性

私は6年前の事で、だいぶ時間がたちましたが、妊娠中の検査で知ったので、その時は、自分の心配より、子どもをどうしよう、どうしようとしか考えられませんでした。もしかしたら・・・と眠れない日がいつもあり、うまれるまで続きました。自分で自分に、きっとだいじょうぶ、知らないでうむより、分かったことで少しでも感染率を下げることが出来たのだからこの子はだいじょうぶと言いきかせました。

あのころは、医者からの情報しか知らず、ほかに相談できるところがあることさえ知りませんでした。うまれてくる子どものことは心配でしたが、うみたいという気持ちが強く、うむことを決心しました。

今は情報も沢山入り、他の方の話も聞くことが出来、とても落ちついています。もし、あの時、他の方の話しが聞けていたら、うむまでのあの不安感がやわらいだのにナ〜と思います。どうしても他の人に簡単に相談できないと思うので、こういう所で沢山話しを聞いて、勇気をもってください。

2001年3月5日掲載

青い鳥は
いずこに?

感染の告知を受けたときには人それぞれ、捕らえ方が違うような気がします。まずは、冷静に考えましょう、何に対して混乱をしているのでしょうかぁ?もしそれが、医療全般に対してなのかぁ?それとも、感染症になった事で今まで各個人が形成してきた人間関係が崩壊または、関係が保ていないとか?色々あると思うのですが?あなたは、具体的にどの部分が混乱しているのかぁ?もう一度冷静に考えてみましょう!

私の場合は、医療情報(HIVそのものがわからなかった時期だったので)が、個人的に入ってこなかったので、HIVとエイズの違いとかぜんぜんわかりませんでしたし、感染告知を受けた頃はとにかく日和見感染症が出ていたので、その治療をする事がまず第一と考えましたので。まずは、確かな医療情報を持った的確な判断が出来る病院に掛かることではないでしょうかぁ。そして、精神的な不安の場合は医療機関からカウンセラーを紹介してもらうとかして、解消する方法も有ると思います。

病院自体がカウンセラーが居ない場合は(東京都などは)派遣カウンセラーがいますので病院の医師に相談して、派遣カウンセラーを活用するのも一つの手だと思います。または、ボランティア関係の相談出来る窓口に聞く事も一つの手だと思います。そして、もし個人的に自分の事が(個人情報など)知られるのが嫌な人はインターネットで、調べてみるのもいい方法かも知れません?医療的な情報や感染者グループが運営しているホームページなどが有ったりしますのでそんなとこから情報を入手するのも良いかも知れません。

2001年1月29日掲載

30代
男性
東京在住

のりきれたかどうかは不明ですが、自分の中に病気の存在を受け入れるのに1年近くかかったと思います。私は、告知されたとき(入院にて)に、まず親や友人に病気を知られずに死ぬことが一番重要で、しばらくして元気になった時にも、たえずどうやったら感染者として見られずに過ごせるかに、いっしょうけんめいでした。だから、かなり日数がかかってしまいました。

とにかく、時間と、よき人との出会いが一番のささえになり、受け入れられたってかんじです。ちょっと勇気をだしてNGOに連絡を取ってみてください!

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2001年1月29日掲載

ミスターX
40歳
男性
ゲイ

私も告知された時は非常にショックでした。入院先の病院では、その夜私がショックから自殺しないか心配して、一晩中見張りが付いたぐらいです。自暴自虐になった時もありましたが、幸運にもすばらしい友達や同じ病気の人たち、主治医、看護婦さん、ボランティアの方々に巡り逢えたことが心の支えになり、治療にまじめに取り組む事ができました。そのおかげで今はかなり病状が安定し仕事を続けています。

同じ病気の人と会って話をすると似たような悩み、体験等をしていることが理解でき、またがんばっている姿がわかって勇気がでました。

2001年1月29日掲載

リュウ
男性
東京都

混乱していると言う状況はとてもよく解ります。例えば、これから自分の体はどうなってしまうのだろう。将来は?仕事は?パートナーはできるのだろうか等など、人によって違いは有るけれど、同じような事で壁にぶち当たるようです。ましてや告知を受けて間もない頃は情報が不足しがちですし、いろいろな不安が一挙に怒涛のごとく押し寄せてくるので、冷静になるのはとても難しいかもしけれないけれど、今の自分にとってどんな情報が必要か、どんなことに対して不安を感じているのかなど、順番を付けて、あせらず一つ一つ解決していくことが良いでしょう。

まず、大切なのは病院との信頼関係を築くことと、正確な医療情報を入手することだと思います。その他にも「他の感染者や患者の方々はどうしてるんだろう?」と言うようなことについては同じ感染者や患者の方と話をしたり、NPO等からの情報提供やアドバイスを受けたりするのも1つの手段ではないでしょうか。今まで以上に人間関係を築くと言うことがポイントになってくるようにも自分は感じました。最後にポジティブな考えを持っている人ほど抜け出るのは早いようです。

2001年1月29日掲載

学校の
先生

30代
最前半

僕は、今から約5年前に告知をされました。今でも告知をされた時の状況を鮮明に覚えています。Drからの告知説明の場面でも、質問のような混乱は無く素直に聴いていました。なってしまったものは仕方ないし、今すぐに死んでしまう訳でも無いしね。むしろ、Drの方が動揺しており、ビクビクしていましたが・・・。質問の回答に程遠いですが、僕の場合は以上です。

これだけでは忍びないので、少し世間話を...先ず、この疾患は、情報との戦いです。いかに正確な情報や正しい知識を持つかが肝心。身体の事なのか生活の事なのか、仕事の事、家族の事・・・混乱している状況は、どんなことなのか冷静に整理し、その不安材料は何かを考えてみて下さい。身体のことであれば、担当のDr.に相談できるしその他の事であれば、ぷれいす東京のようなサポート団体に相談することで、少なからず混乱の軽減ができるか、何らかのヒントが持てると思いますよ。

また、この疾患は、以前のように絶望的な病気では無いことを是非知って下さい。現場の医療は、本当に日進月歩しています。事実、AIDSで入院している人は、あまり見なくなっていますよ。

2001年1月29日掲載

メカパンダ
男性
33歳
東京在住

僕は全く「混乱」することはなかったです。僕の場合は、検査を受けるときすでに、様々な状況から陽性の告知がなされるのをある程度予想していました。だから告知されたときは、「あ〜やっぱりそうだったか、残念。。」という感じでしたし、すぐ後には「なっちゃったものはしょうがないんだから今すべき事をしっかりやらなきゃね。。」と考えてました。

それに、僕の場合はHIV感染の事についてすぐに話せる友達が二人いたのも幸いだったかもしれません。二人とも僕の話を聞いてくれて、また色々な話を僕にしてくれて、いたわってくれました。友達って、お金に換えられない一番の財産だよ、ホントにね。


2001年1月29日掲載

はらいそ
49歳
ゲイ
ポジティブ
茨城県在住

HIVの感染がわかったのは大腸にできたポリープの手術を受けるためにその条件としてHIVの検査を受けたからでした。まさかとは思うけれど感染する可能性のあるようなこともしてきたので告知をされた時にはそれ程のショックはありませんでした。むしろ医師の説明を冷静に受け止めていた感じでした。ここ何年か疲れがたまっている感じがしたり、3年前には体重が4キロぐらい落ちたり、今になって考えると体がいろいろなサインを送っていたのではないかと思うことがたくさんあります。今も何か新しい症状が出てくるとCD4が少ないせいではないかと思うことがあります。

感染がわかる1年前に仕事をやめ予定通りに秋には職業訓練でパソコン操作を学び仕事を探しているところの告知でした。就職するよりは何か仕事を始めたほうが体調をカバーできると思い、パソコンスクールにもう一度通ってマウス検定を受けて今は個人指導のパソコン・インストラクターの仕事をしています。まだ家族にはカミングアウトできませんが、大事な友達にはカミングアウトしましたが皆快く受け入れてくれました。

私達PHAにとって大切な事は、信頼できる病院で信頼できる医師の診察を受ける事ではないでしょうか。そのためにもできれば県内のPHAと連絡を取り合って、お互いに少しでもよりよい治療が受けられるよう考えているのですが。

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